ためこみ症

ため込み症の元夫の進化と、私たち家族のこれから

物で溢れかえるリビングの様子 ためこみ症

ため込み症の元夫の進化と、私たち家族のこれから

ため込み症の夫との離婚してから、2度目の年末がやってきました。

その後私たち家族は、それぞれに新たな人生を歩み始めています。

ため込み症の夫の変化と変わらないこと

長男と三男とは時々会ってお互いの状況を話すのですが、つい先日もその機会がありました。

元夫は元気だと聞いてはいたのですが、今は地域のボランティア活動などに参加しているらしく、私が家にいた頃よりも生き生きと暮らしているようです。

長年共に暮らしたのは事実ですし、情はありますもの、「良かった」と私は心底ホッとしました。

それはさておき、やはり物は着々と増え続けているようで、元夫がかつて1日座っていた座椅子は、ついに物に埋まっているとのこと。

どうやら、離婚前の私の唯一の場所だったキッチンの椅子に、元夫が座ってタブレットやスマホを手に過ごしているらしいのです。

そこなら冷蔵庫もすぐですし、背中側にある小さな窓から陽の光を浴びられますし、居心地よいのでしょう。

冷蔵庫の中も古い食品が溢れかえって、大変なことになっているそうなのですが…一緒に住んでいる三男も手を出さずに知らん顔をしているようです。

三男は今のところ家を出るつもりはないようなので、まだまだ我が家の状態は私の気になるところではありますが、仕方がありません。なるようになっていくことを見守るしかできません。

物は予想通り増え続け、元夫は活動的に過ごしているというのが近況です。

当たり前ではなかった暮らし

離婚して良かったことは、やはり自分の住む場所をきっちり管理できるようになったことです。

管理というと大袈裟ですが、単に家を「片付けられる」という意味だけではなく、どこに何があって何が足りないということが把握できるようになったといいましょうか。

物も最小限しかありませんし、私自身が選んだものしか家の中にないのですから当然と言えば当然ですね。

離婚前の家では、自分の把握できない大量のものに囲まれて生活していましたし、何が必要で何が足りないのか?というシンプルな考え方が全くできませんでした。

というよりは物に関する意識自体、切り捨てて過ごさなければ私は正気を保てなかったのです。

今こうして小さなワンルームで、シンプルを極めたような最小限の暮らしをしていますが、私の性にとても合っていると感じています。

食器棚も置けないような小さなキッチンで、大好きな料理ができるかしらと初めは不安でしたが、なんのなんの毎日せっせと料理を作り続けています。

狭い部屋ですが折り畳みテーブルはきれいに拭かれ快適に食事ができます。

以前のように、膝の上にお皿を載せて食べていたことを思い出すと、あの頃の当たり前だったことが信じられない気がします。

足りないくらいがちょうど良い

私はどうやら、「少し足りない」と感じるくらいが何に関してもちょうど心地よいのです。

足りない中で工夫してどうにかなった時、満足感を得られるといいますか、貧乏性??なのでしょう。笑

少ないお給料をやりくりしながら、どうにか暮らせていることに自分では満足していますし、お金も少し足りないくらいが私にはちょうど良いのかもしれません。

長年物に埋もれて生活してきたためにそう感じるのか、もともとそうだったのか?今となっては分かりません。

最小の住まいに、最低限の物。この歳になって出会ったこの小さな住まいに、とても愛着を感じています。

心の中にいつも居座っている思い

離婚して家を出たことで残念だと思うのは、やはり子どもたちと一緒に暮らしてきた家を失ったことです。

分かりきったことではありますが、家を出るということは子どもたちと一緒に過ごした思い出の詰まった場所から離れることでした。

私が家にいた頃には長男が頻繁に顔を見せてくれたり、次男が遠方から帰省してくれたので、ワイワイ賑やかに集うことができましたが、今はそうはいきません。

誰かの誕生日や行事のあるたびに、家族で揃って祝ってきた私たちですが、今その場所がなくなったことに寂しさを感じます。

そう思うと家は物に埋もれてはいましたが、貴重な場所であったことには間違いありません。

その貴重な家を失った私は、時々長男、三男と食事に出かけることで繋がりを保とうと努力してはいますが、うまくいっているのかいないのかは分かりません。

LINEでのやりとりでお祝いしていますが、家族集って、物に埋もれながら立食パーティーをしていた頃が懐かしくさえ思います。

何かを得るためには何かを手放さなければならないということなのでしょう。

離婚というものは、子どもたちの年齢関係なく問題に巻き込んでしまうものです。それを思う時、どうしようもなく胸が痛みます。

父親との関係修復ができなかったことに対して、子どもたちに申し訳なく思っていて、その思いが心のどこかにいつも居座っているのです。

私はこの苦しみを感じることを素直に受け入れ、自分への反省に繋げなくてはならないと感じています。

自分を省みることが増えた

ひとりになったからでしょう。

今までは元夫への不満や、物に埋もれた家の様子にばかり気持ちが向いてしまい、自分を省みることが少なかったのかもしれないと思います。

熟年離婚に踏み切った時、自分にも反省点がたくさんあると頭ではわかっていましたが、どうしても相手が悪いのだという気持ちが勝っていました。

ひとりになってじっくりと自分と向き合ってみると、私の甘かった部分や傲慢な部分が見えてきたような気がします。

そもそもため込み症に関しても、感情のやりとりができないことに関しても、夫は結婚当初から変わっていないのです。それをわかったふりをしていた、もしくは見逃していた、ともすると夫を思い通りに変えられると傲慢に思ってしまっていたのですから、私の責任も大きいでしょう。

家族一人一人の新しい歩み

ため込み症の夫と離婚したことで、長年悩んできた家の状態からも解放され、私は50代半ばで全く別の人生を歩み始めました。

そして私の決断ゆえに、元夫や子どもたちは新しいかたちの生活へと進まざるを得なくなったのです。

元夫が今まで全くやらなかったボランティア活動をしだしたのも、彼の内面で何かが変わったせいでしょう。

元夫は私よりもずいぶん年上なので、新しいことにチャレンジできたことは素晴らしいことだと思いますし、それに関しては良かったと思えます。

子どもたちもそれぞれがもう大人ですから、私たち夫婦を反面教師にして、人生のパートナーを見つけてほしいと心から願っています。

私は子離れできない母親でしたから、離婚することで否応なしに子どもたちと距離を置くことになりました。

もしかしたら、ちょうど良い関係になれるのかもしれません。

何が良くて何が悪かったなどと今は分かりませんが、懸命に一人ずつが新しい生活に歩み出したことは確かです。

今の私は、元夫との長い結婚生活で出来上がった私だとも言えますし、後悔はありません。

最期の時に「私はこれで良かったのだ」と思いたい。

残りの年月に想いを馳せながら、また新しい年を迎えようとしています。

 

 

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