ためこみ症

物を溜め込む性質はひとつのピースである〜ため込み症について考える

ため込み症の元夫が集めた物で埋まるテーブル ためこみ症

重い知的障害を持つ方を介護する仕事に就いている私ですが、この仕事に就いて間もなく気づいたことがあります。それは、比較的障害の軽い方の中に、常に自分の荷物をそばに置きたがる方が一定数おられるという事です。

具体的にいうとカバンに自分のものをパンパンに詰め込んだり、着ている服のポケットに入れられるだけ何かを詰めて、どこにいくのにも手放さずに持っていくという具合です。

私の感覚的な推測にはなりますが1割から2割くらいの方が物に執着され、中にはご自宅が物で溢れていることもあり、親御さまがため込み症だと思われるケースもあります。

確率的には人口の3%の方にため込み症の傾向が見られるという記事を読んだ事がありますが、それが正しいとするなら1割から2割というのは高い確率だと思います。

荷物を持てるだけ持ち歩く方の共通点として、その日や今後の予定が気になり過ぎるということが言えると思います。

いつ、誰と、どこで何をしてどう過ごすのか?という不安が消えることはありません。

健常の方ももちろん予定は気になるものですが、そのことばかりにずっと囚われ、時にはそのせいで不穏状態やパニック状態に陥るなど自分を取り巻く環境に対する不安が大きいのです。

パンパンになったカバンを常に持ち歩くのはそのような不安を自ら和らげるための行動でしょう。幼い子どもが気に入ったぬいぐるみやタオルなどを手放さないのは同じ理由なのか私にはわかりませんが、それを持つ事で何かしらの安心を得ていることは間違いないでしょう。

あと、知的障害を持つ方の中には不穏になると他害行為に及ぶ方もいますが、物を持ちたがる方は概ね穏やかで、他人に対して自ら攻撃的になったりすることはほとんど無いように思えます。

ストレスや不安を外に向けて発散するタイプと、物を持つことで内側で安定を図っているタイプという感じでしょうか。

ただしものを手放せない方も、無理に物を放していただくことは難しくかなりの抵抗を示されます。

これは私と長年共に暮らした重度のため込み症の夫を思い出させ、考えさせられる共通の特徴です。

重い知的障害の方はご自分一人で出歩いたり、買い物に出られることもありませんから、「ため込み症」といっても家中に物が溢れ出ることはないかと思います。(ご家族の中にため込み症の方がいれば話は別ですが)

私の元夫は自分で物を買ったりして集める事ができましたから、家中がモノで埋まってしまいました。その家の中を移動する際にも、何が入っているのか「カバン」を常に持ち歩いていたのです。

そのカバンは数日経つと違うカバンに変えられたりしますが、必ず彼はそれを持ち運び手ぶらで部屋から部屋に移動することはなかったと思います。

ほとほと物に溢れる生活にうんざりしていた私は彼のカバンの中身を確認したことはありませんが、きっと特段持ち歩く必要もない細かな雑貨が入っているのだろうなと思います。

それを持つことで元夫は安心感を得ているのでしょう。

夫は大学も出ていますし知的には障害を持っているとは言えないのですが、人は知的な面だけでできているわけではありません。

物を持つことで安心を得られるという点では、知的障害を持つ方の中で物に執着される方と夫は同じだと思うのです。

余談になりますが、知的障害を持つ方に関しては、この職業に就くまでは思いもよらなかった才能…超人的な才能を持つ方が多いと感じています。

例えば1000ピースほどのジグソーパズルをスイスイ仕上げる方も数人いますし、驚くのは使いすぎて表面の絵がはげてしまったパズルを形で覚えているのかたちまち仕上げる方もいます。

カレンダーの日付けが先までわかる方や、記憶力が超人的に優れている方もおられますし、これらの才能は知的な部分とは別のピースがずば抜けて優れているのだと思います。

そして何より私が感銘を受けたのは、言葉が話せない、分からない方も多いのですが、それぞれに生きていくための術をしっかり持っておられるということです。それは健常者の私よりも秀でていると言えるほどで、言葉では説明し難いのですが生きていく上で自分に必要だと思えるものを自然に身につけてこられたのでしょう。

無数のパーツからなるひとりの人として、知的なパーツが少し不十分であっても、あるパーツが飛び抜けて発達していることでバランスは保たれているのだと思います。

その数えきれないパーツのことを考える時、結局は健常者も障害者も明確な線引きはなく、変わりはないのではないかと私は思います。ただ何かのパーツが飛び抜けて発達していたり足りなかったり形が違ったりするのでしょう。

ため込み症に関しては「物を集めたい。手放したくない」というのは、生きていくための感覚の一つで、誰にでもある感覚なのだと思います。その感覚が飛び抜けて大きなパーツとなった時、それは「ため込み症」という名前の病気になるのかもしれません。

ため込み症の元夫が集めた物で埋まるテーブル

ため込み症の元夫が集めた物で埋まるテーブル

物を溜め込むことと生きる事がまるで同義のような重度のため込み症の夫と暮らした悩みの多かった日々は、「なぜ物を溜め込んでしまうのか?」「なぜ物に執着するのか?」と頭から疑念が離れることのない日々でもありました。

夫と離婚してちょうど1年が経ちますが、今でも物に埋もれる生活の不快さと現実逃避しなければ正気を失いそうになる感覚は忘れる事ができません。

ただ、それは感覚の違いであり、どちらが正しくてどちらかが間違っているという問題では無いのかもしれません。他人に迷惑がかかるという点においては夫の中の「人に歩み寄る」というパーツが不十分だとも言えます。

私に関して言えば、「慎重さ」というピースが不十分だと自覚していますし、そのほか自分では気づけない部分がたくさん欠けているはずです。

無限のピースが、障害者、健常者、病気などの曖昧な境界線の上に振り分けられているようにも思えます。

ため込み症の夫と一緒に暮らしていた頃はただただ夫に呆れ果て、物に埋もれた生活が嫌で嫌で仕方ありませんでした。

ですが、それは元夫にとっては生きる術として必要なものなのかもしれません。

離婚し離れて生活することで、また違った視点から「ため込み症」という病気…突出したピースについて、私は今も考えています。

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