日々思うこと

ステップファミリーでの子育てを終えて|継母になるということ

日々思うこと

継母になるということ

私が子持ちの夫と結婚した20数年前はステップファミリーという言葉は知られていませんでしたし、実際私の身近にはそのような結婚を選んだ人もいませんでした。

離婚や再婚をする人が今よりも少なかったのからだと思います。

今回は私が継母となってどのように過ごしてきたか改めて振り返ってみたいと思います。

結婚までの不安な日々

約25年ほど前に13歳年上の夫と結婚したのですが、夫には前妻との子である男の子がいました。

前妻は継子が幼い頃に亡くなっていて私との面識はありません。

夫と私とのお付き合いが始まりまったのはその子が10歳の頃で、すぐに私と顔合わせをしました。

色白で顔つきも可愛らしく、「なんて純粋で可愛らしい子だろう。」と思ったのを覚えています。

もともと子ども好きだった私ですが継子と楽しくやりとりをしながらも、この先はどうなるのだろうという漠然とした不安はありました。

夫は付き合い始めてすぐに「子どもの母親になってほしい」と言い、夫との付き合いが進んでくると「本当に私にその役目ができるのか?」と、逃げ出したくなる時もありました。

楽観的な性格の私でしたが、とにかく不安でいっぱいでした。

一番の不安のもとになったのは、夫が子どもに対して「お父さんはこの人と結婚するのだよ」ときちんと説明してくれなかった事でした。

まだ10歳だとはいえ、大事なことなのですから何も伝えないままというわけにはいきません。これから一緒に暮らす家族なのだと分かりやすく説明をするべきだと私は考え、夫に伝えました。

夫は面倒くさそうに簡単に「この人と結婚するからな。」という説明で終わってしまいました。継子は「うん」と頷きはしましたがその意味が通じたのかどうかはわかりませんでした。

私も不安でしたが継子はもっと不安だったに違いありません。

そんな夫に不信感を感じながらも協力してくれるはずだと私は自分本位に考えました。また、母親役が務まるのかという不安が私の中で膨らみましたが、それでも継子のあどけない笑顔を見るともう後には引けない気がして何とかやっていくしかないと自分に言い聞かせていました。

そんなふうに結婚までの日々は不安が募るばかりでしたが、子どもを連れた夫の方が私の不安に寄り添うべきでたし、何も言えなかった私にも問題があったと今になり反省しています。

子どもにとっても大きな出来事なのですから、ステップファミリーになることを選ぶなら普通の結婚の何倍もいろいろと話し合っておくべきだと思います。

「良い母にならなければ」というプレッシャー

継母という言葉にどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。

物語の中では、良い継母はほとんどいないのが悲しいところです。

たいていは自分の子を可愛がり継子をイジメる意地悪な役目と決まっています。

そんなイメージを私自身が持っている「継母」という立場に、自分が立つ事になろうとは思いもしませんでしたし、どのように12歳の思春期の子どもに接していけば良いのかわかりません。

今のようにインターネットでの情報もなく、似たような環境の人も周りにいませんでした。

小さな子なら抱きしめたりしてスキンシップも取れますが、継子はもう思春期にさしかかっているのです。まだ会話は楽しくできましたから、私のことを信頼し好きになってもらいたいと日々必死でした。

頼りにしていた夫は自分の子に全くと言っていいほど関心もなく、関わりは非常に薄いものでした。「おはよう」というような基本的なコミュニケーションすらとろうとしないのです。どうやら子どもの母親になってくれる人を探していただけで、自分が父親の、しかも新しい母親と子どものパイプ役を担おうとは考えてもいないようでした。

この子の母親になる、と私が自ら選んだのですからとにかく早く継子との関係性を深めたいと私は焦っていました。

物語の中にいるような意地悪な継母にはなりたくありませんでしたし、周りからそう思われることを私は恐れてもいました。

暗闇の中をひとり手探りで進むような毎日でしたが、間もなく妊娠し体調も悪い日が続きました。

つわりのきつい時期なども継子の前では平気を装い我慢したり、一緒にいる時はいつも笑っていなければならないなど、常に優しい母にならねばと良い母の仮面をかぶっているような日が続きました。

赤ちゃんが産まれた時継子は13歳でした。感受性の強い頃です。

子どもたちへの愛情は平等にかけなければいけない、継子の良い母にならねばならないという大きなプレッシャーと闘う日が長く続きました。

そんなに気張らなくても良かったのだと今は思いますが、その日々も未熟な私には必要だったのでしょう。

継子の方は子どもながらにして早くに母親を亡くしたからか、私よりも落ち着いていたようで、ある日私との何気ない会話の中で「僕のお母さんはずっと前に死んでしまったからね。」とあっさり言うのです。

私はどう反応して良いのかわかりませんでしたが「そうなのね」と真顔で返したのを覚えています。

当時は気付きませんでしたが、「無理してボクのお母さんを演じなくていいんだよ。」と、焦る私のプレッシャーを和らげようとしてくれたのだと思います。

幼いころに亡くした母の葬儀ではずっと泣き続けていたという継子。彼は私よりもずっと達観し大人だったのかもしれません。

「母親は死んだ」という現実を継子はとっくに理解していたのに、私は「この子の良いお母さんにならなくてはいけない。」という考えにがんじがらめになり一人で焦っていたのです。

だいたい何の経験も無いのに初めから立派な母になれるわけがありませんし、彼を産んだ母には決してなれないのです。

その頃の私はそんなことには気づけず、自分のことばかりに意識が向いていたのでしょう。

「良い母ならここでこうするだろう、こう言うだろう。」という頭で考えてから継子に接していました。

精一杯頑張ってはいたのですが、さぞ窮屈な継母だっただろうなと反省することが数えきれないほどたくさんあります。

継子とのご縁

残念ながら私たち夫婦は長い年月を経ても良い関係を作る事はできないまま今に至っています。

夫は病的に感情の通じない相手であり、ためこみ症という病癖で家族を悩ませ続けています。

夫には夫の言い分があるのだと思いますし、私にも反省するべき点がたくさんあるのでしょう。

夫とはそのように温かい関係を築いてこれなかった私ですが、ひょっとしたら継子とのご縁でこの結婚があったのかも知れないと考える事があります。

次男が生まれ、三男が生まれ、思春期にあたる頃の長男である継子には複雑な思いをさせていたと思います。

それはいくら私が気遣ってもカバーできるものではありませんでした。

しばらく引きこもりのような辛い期間が続き私は子育てと長男のことで数年間にわたり気を揉み続けました。

ですが長いトンネルを抜けるように、時が過ぎてその悩みたちは去っていきました。

いろいろな事がありましたが、継子をはじめ3人の息子達のおかげで私は心の幅を広げてこられたように思えます。

子育てを終えて今思うこと…ひとりの人同士として

そして20数年の月日が経ち、成人した子どもたち3人が仲良く並んで話している様子を見ると感謝の気持ちで胸がいっぱいになります。

3人ともそれぞれに個性豊かに育ってくれました。

歳の離れた兄弟達は名前で呼び合う「友達」のような関係であり、その子ども達と私もまた、「親子」というよりは、色々な事を乗り越えてきた同志であり仲間のような関係です。

あまり母親らしくない母親なのかもしれませんが私はこれがベストな関係だと思っています。

あんなに不安を感じ関係作りに悩んできた長男である継子が、今では私や弟たちにとって彼がいないことは考えられないほどの大きな存在です。ありがたいことです。

カタチに囚われずに、お互いを認め合い尊重できるような家族関係。そこには継子や継母という概念はありません。今こうして継子という言葉を書くことも「ああそうだった」と思うほどなのです。

ひとりの人同士という関係性の私と3人の子どもたちですが、もしかしたら長男がいなければ弟たちと私は違う感じの親子になったのかもしれません。

大変なことだらけの子育て期間でしたが、私の場合は継母になることを選んだことで得られたことはとても多かったとしみじみ思います。

継母といってもお互い子連れのケースもあるでしょうし、前妻がいればその関係なども絡んでくるでしょう。継子の年齢や性別、人数などでも悩みは変わってくるでしょうね。

まずは私が疎かにしてしまった婚前の話し合いを子どものためにしっかりして、血の繋がったパパやママの方が相手の負担を少しでも軽減してあげれるように配慮するべきですよね。

そして継母や継父の役目に疲れ悩んでいるなら、無理に「この子の母になろう、父になろう」と頑張りすぎないことです。いくら頑張っても血の繋がった本当のお母さんお父さんにはなれないのですから。

ですが、いろんな悩みや問題を子どもと一緒に超えていくことで実の親子に負けないくらいの関係性を築くことはできるのです。

継子も実の子もやがてひとりの人同士として同じように信頼し合える関係になるのがベストだと私は思います。

 

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