ためこみ症

熟年離婚を選んだ母から子どもたちへ|ためこみ症の夫

たくさんのモノが積み上げられたり並べたりされているテーブル面 ためこみ症
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熟年離婚を選んだ母から子どもたちへ

先日私は離婚をしました。

ためこみ症の夫との結婚生活は27年余りの期間続きましたから、いわゆる熟年離婚です。

色々と悩みの多かった結婚生活の中で一番の幸せは継子を含め、3人の男の子の母になれたことです。

そのことだけでこの結婚に後悔はありません。もし、違う人と結婚していたらこの息子たちとは出会えなかったからです。

今回の離婚に踏み切る際、一番の気がかりはやはり子どもたちのことでした。

大切な継子である長男へ

たくさんのモノが積み上げられたり並べたりされているテーブル面

モノが積み上げられたり並べられたりしているリビングテーブル

一番上の継子は先妻である母親を亡くした3歳の時から12歳までの間、近くの児童養護施設に預けられ夫が私と再婚したと同時に我が家に戻りました。

結婚当初、実の子である息子に無関心で接点を持とうとしない夫の様子に私は早くも不安と絶望を抱えていました

結婚前には夫が継子と私の関係性ができるまで寄り添ってくれるはずだと疑ってもいませんでしたから突然思春期の男の子とふたり取り残された私は不安なまま明るいお母さんを必死で演じていた様に思います。

いくら私が不安や不満を訴えても夫には全く通じませんでした。夫は「子どものことで悩むことは不要だし、ただ食事を与えれば良いのだ」という考えだったのです。

私はそうは思えませんでしたし、幼児期にたった一人の父親からも愛情を受けることができなかった継子のダメージはとても大きいと感じ、どうして良いのか毎日途方に暮れていました。

結局継子は25歳になるまで自分の部屋でひきこもりの状態になりました。

彼も辛かったのだと思います。施設から出てやっと家に帰れると思ったら知らない女の人が家にいてお父さんは自分に無関心なのですから。

自分の産んだ二人の息子たちの育児に奮闘しながらもあなたも大事な存在なんだよというメッセージを常に継子に送りながら私は見守っているつもりでしたがなかなか思う様にいきませんでした。

どうしたらこの子が前向きに生きてくれる様になるだろう?
母になった経験もない若い私が考えるのです。今の様にインターネットなども無かったですから情報も無く純粋に自分で考えたやり方でしか継子に接することができませんでした。

それは出口の見えない長い長いトンネルの中にいる様な感覚でした。

私が最も気持ちを割いたのは、私の産んだ二人の息子たちと継子である長男の関係性作りでした。次男と歳が14歳離れていますからなかなか難しくはありましたが今では3人とも仲が良く、やはり兄弟がいて良かったという感想です。

継子が引きこもっていた約10年の月日は私の人生の中で間違いなく最も辛い時期でしたがその期間があったからこそ彼は私をいつも気にかけ心配してくれ、時に頼りになる意見をくれる息子に成長してくれたのだと思います。

そして父親のためこみ症に関して長男である継子はどう感じていたのでしょうか?

夫は先妻と結婚した時住んでいた建て替え前の家もモノでいっぱいにしていました。

継子はきっと生まれた時からその状態を見ていたはずですし、その後施設に預けられてから自宅に帰ってきた時にあてがわれた部屋も夫のモノで溢れかえっていました。

ですから継子にとって家がモノだらけという状態は当たり前の光景なのかもしれません。

施設に入っていた頃は月に1度か2度夫が自宅に連れ帰っていて、中学に入学したら自宅に戻るという約束を父と子の間でしていたようです。ずっと我が家に戻ることを夢見ていた継子にとって家中に父親が集めたモノが溢れていることは気にならなかったのかもしれません。

そんなこんなで幼い頃から波乱万丈の人生をスタートで、一時はこの先どうなっていくだろうと心配した継子でしたが、ある時期が来るとタネから自然に芽が出る様に生き生きとしだし自立することができました。

今では私の両親までも気遣ってくれ、3人の男兄弟の一番上の兄として頼りがいのある存在です。

その長男は今回の私の離婚への決意を「新しい一歩」として受け止めてくれ、兄弟の中で一番先に理解を示してくれました

ですが内心は寂しいに違いありません。近所に一人暮らしをしている彼ですがしょっちゅう我が家に顔を出しては明るい話題をくれていたのです。そして私の手料理を食べて帰るというのが彼の楽しみの一つだったと思うのです。

実の母を顔も覚えていないうちに失い、長年継母として一緒に過ごした私が父親と離婚するというシチュエーションは彼の身になって考えると私にはとても辛いのです。

その上で行動に踏み切ったのは離婚して籍は抜けたとしても私たちの過ごした年月は嘘ではなく愛のある日々でしたしこれからも形を変えて家族として付き合っていけると考えたからです。

ある意味達観した考えを持っている彼が、いいお嫁さんをもらってくれれば良いなあと私は願っていますが、こればかりは神のみぞ知るという範疇ですね。

 

同志である次男へ

モノが溢れる部屋で子どもたちは育った

男の子たちは平気でここで遊んで過ごした。

夫がモノを溜め込んでいることや、家族に無関心なことで一番私に共感し、同じ不満を感じていたのはこの次男でした。

家がモノで溢れかえりお客様など来れない状態でしたが、男の子って気にしない子が多いですね。女の子だとそうはいかないと思うのですが、次男は中学生くらいまでは気にせずどんどん友達を家に呼びましたし呼ばれたお友達もひょいひょいモノを乗り越えながらリビングルームで過ごしていました。

私的にはお友達が家に帰ってから「お母さん、あの家は散らかっているよ」などと言われないかしら心配しましたがそんな事もありませんでした。

高校生になる頃…といっても彼は高校は1ヶ月しか通わず独自の道を行くのですが…次男は家の状態を不快に感じ始めたようでした。

というのもモノがありすぎて困っている不満を子どもたちの中でも私と会話の多かった次男によく話したからかもしれません。

次男は高校不登校の状態になりましたがもちろん父親は無関心ですし会話もありません。

いろんな葛藤を経て彼は単位制の高校に転入し、そこから主に自宅にて勉強し大学に進むことになったのですが、エアコンが一番よく効くのが2階のリビングだったので3階の自分の部屋から机を降ろしてきたのでした。

私の趣味であったエレクトーンを処分しそのスペースに机を置いたのですが、やはり目に入る光景がモノだらけだったので次男は勉強に集中することに苦労していました。

モノが積み上げられた壮絶な光景は仕事から帰った私をさらに疲れさせると感じていましたが、次男にとっては気が散って勉強に集中できないという影響がありました。

それでも母子で愚痴や冗談を言ったり気を逸らしながら、どうにか勉強し続けたことで大学に合格することができました。

私は次男がモノを見てイライラする様子を見て、こんなことなら初めに離婚を考えた時、まだ次男が幼稚園に通っていた頃でしたが…家を出た方が良かったのかもしれないと思いました。

父親の子どもたちへの無関心さ、ためこみ症によるモノの多さと、母である私がその状態に上手く対処することができず、夫婦の関係性が歪んでいたことも子どもたちの生育に大きく影響してしまったと思います。

こんな環境で勉強して希望していた大学に合格できたのだからすごい!!と私はポジティブに喜びましたが、心の中では子どもたちに済まなかったと何か申し訳なさを感じたのも事実です。

次男は大学卒業後に遠い街で就職し自立したのですが、私が家を出ること、離婚を考えていることを伝えると「あの家にいると気がおかしくなるからお母さんも早く出た方が良い」と同意を示してくれました。

ですが反面、「僕が帰る家が無くなるね。」と寂しくもある様でした。

モノでいっぱいの家でも母である私がいたからこれまで帰省してくれていたのです。私が家を出てしまったらもう帰る家は無くなったと次男は感じているのです。

父親との会話ややり取りもなく関係性がまるでないからです。

「こんなことならお母さんはあなたがもっと小さいうちに離婚していた方が良かったかなと思う。」とつぶやくとそれに対して次男は「経済的にも大変だっただろうし小さい頃に離婚せずに今までいてくれたことに感謝している。」と言いました。

この家はモノがいっぱいで普通ではない、困っていると私が愚痴を話したことで次男は「この家は普通ではないのだ」と気づいたらしく、母である私が普通に暮らしていたらこの家の異常さに僕は気づかなかったかもしれないと言うのです。

もし夫婦揃ってモノの山に埋もれて暮らすことが普通だと感じていたとしたら子どもたちも親と同じ意識のまま育つのでしょうか??

次男が家を出た時、私は半年ほど寂しくて仕方ありませんでした。

不登校だった時期は言い合いもしましたし、お互いの意見を素直にぶつけ合うことができた相手は私にとってこの次男だけかもしれないと今になって思うのです。

私の愚痴に共感し、励まし合い、本音を言い合えた次男とはいわば同志のような関係でした。

そして彼は私の離婚話の進捗具合まで遠方から気にかけ続けてくれたのでした。

愛する三男へ

離婚の際に一番気掛かりになったのは現在も自宅から通勤している三男のことでした。

末の子ですし成人したとはいえ私にとっては可愛くて仕方ない存在なのです。

その息子をこの家に残して私は家を出られるだろうか?

1度目に子どもたち3人を集めて私の離婚への意志を伝えた時、口数少ないこの三男が「本当に?参ったな。」と呟いたのを私は聞き逃しませんでした。

結局一度は離婚を諦め、またこの家で夫との冷たい夫婦関係を続け未来にはこの不要なモノだらけの家を私が片付けるのだと自分に言い聞かせる毎日が続きました。

ですが間もなく私は「やっぱりこれは続けていくべきではない」と夫婦関係を終わらせる決断をすることになったのです。

そこに至るまでの苦しみは今まで味わったことのない吐き気をともなうような精神状態でした。

まずは一番影響が大きく受ける同居の三男に気持ちを打ち明けるのは勇気が要りました。

彼ももう23歳ですし、私はいつまでも三男可愛さのあまりに私の行きたい道を選ばないことは良くないのではと考えたのです。

また、三男もいいずれは巣立っていくでしょうし、私が先に家を出てそのプロセスを彼に伝授することも出来ると考えました。

けれども一番大きく私の心を動かしたのは私が子どもたち…特に三男が可愛すぎて私が依存していることを自覚していたことです。

夫と関係がうまくいかないことから子どもたちに過剰に私は愛情を注ぎ、いらぬお節介までしているように感じることがありましたし、そろそろ子離れしなければいけないと思いつつも可愛い三男が家にいることで私はついついいろいろと手を焼いてしまうのでした。

夫は子どもたち3人が生まれた時からあまり関心がありませんでしたから、私は時に父親の役目すら担ってきたのです。

私は子どもたちに密着するように生きることで幸せを感じてきましたし、言い訳になるようですがある意味仕方のないことです。

三男は私が家を出ようとも自分はここから今出ていく気は無いとはっきりとした意志を持っていましたから、それなら私が家を出ることで一人暮らしの練習になるのではないかと考えました。

もし家を出たいと思う時が来たら私が全力でサポートするねということで私は家を出ていくことを決めました。

夫と私で離婚話を自宅でしたので、三男が自分の部屋から出てきたりその場に居合わせたら辛いだろうなと思いましたが彼はそうならないようにしたのでしょう、話し合いは彼が聞くこともなく進められました。

離婚話がまとまった週末の日、夜勤明けで部屋で三男が眠っていることは知っていましたが、私は顔を見るのが辛いと感じ「落ち着いたらまた会えばいい」と何も言わずに出てきたのです。

顔を見たところで「家を出ていく」私は三男に言葉をかける勇気などありませんでした。

いくら三男にとって良い結果をもたらすはずだと決断した事でも、顔を見れば彼と別れる悲しさで胸がいっぱいで私は泣いてしまったでしょう。

私と家族のこれから

ひとりになってから何度か三男に連絡を取り元気だということは分かっていますが、口数が少ない彼が何か困っていないだろうかと心配な時もあります。

ですが、彼も大人なのですし困ったら声をかけてねと伝えてあるのですから、ここで私はあまりでしゃばらず彼が成長するのを見守るべきだと感じています。

そして私は子離れして自立しなければなりません。

あのまま私が自分の人生を諦め将来片付けることに責任を感じ続けていても状況は何も変わらなかったことでしょう。

夫はあれから私に用事のついでにメッセージをくれましたが、思ったより感傷的になっていて、どうやら結婚前の出来事に思いを馳せている様でした。

結婚後の子どもたちを含めた思い出を夫が何も持ち合わせていないことは可哀想だと思いますが仕方ありません。子どもたちの思い出を彼が持っているのならば私は離婚を踏みとどまったかもしれません。

何も共通のものが見当たらないことが私に絶望感をもたらし今回の決断に至ったのですから…。

ですが自覚のない夫を責める気もありませんし仕方がないことです。

幸いなことに私たちはお互いに憎んだり恨んだりすることなく感謝の気持ちを持ってお別れすることができました。それは何よりなことの様に私には思えます。

これまで我慢さえすれば波風が立たないという場面では私は石の様に心の中の悩みや不満に対して「無かったこと」として対処してきました。

考えてみればそれが私の一番の欠点なのです。

自分の不満や希望をさらけ出すと事態が悪くなると自分で決めつけてきたのです。

小さな事でも周りに投げかけることで、初めは悪い状態になると思われる事でも徐々に良くなっていく可能性もあります。

私たち夫婦関係において、夫がためこみ症で感情が伝わらない人だったとしても必要以上に私が自分の不満を抑え込まずにさらけ出していたら、もしかしたら何か違う方向に向かったのかもしれません。

後悔は全くしていませんが、今回の熟年離婚を経て私なりに自分の欠点を振り返りこれからに活かせていけたらなと思います。

離婚し私が家を出たことで、時間は必要かもしれませんが、家族全員に良い変化があることを期待して私はこれからの人生を生きていきたいと考えています。

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