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日々思うこと

ひとの子育てを見て我が子育てをふり返る

日々思うこと
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子育ては自分育て

「子育ては大変だけどあっという間に終わるわよ。」

先輩ママ達に何度そう声をかけていただいた事でしょう。

26年前に結婚し、夫の連れ子が12歳の男の子、そしてその後間もなく生まれた男の子2人、3人の男の子のママになった私は毎日朝から晩まで育児や思春期の長男の世話に追われていました。

そんなめまぐるしい毎日が永遠に続くのではないかと思えるほど気力も体力も消耗した日々。今となっては、しみじみと思うのです。

その長かった日々にはキラキラ光る子ども達からの思い出のプレゼントがぎっしり詰まっていたのだと。

あっという間、とは言えませんが幼い子どもたちが無邪気にまとわりついてきた日々は懐かしく、戻りたくても戻れない貴重な年月です。

子育てを終えようとしている今、一抹の寂しさを抱えながら過ごしている私ですが、つい最近近所でふたつの気になる出来事に出会ったので少し考えてみたいと思います。

スーパーでの出来事

ある日、私は普段はあまり行かないスーパーに立ち寄り買い物をしていました。そのスーパーには他のお店にあまり置いてない珍しいお菓子が売っていて、どちらかといえば高級なお店です。

お昼過ぎでお客さんはまばら。そのお菓子のコーナーには私と、少し離れたところに1年生くらいの女の子の他は見当たりませんでした。

友人宅に持っていくお菓子を選んでいた私が視線を感じてふと横を見ると、その女の子が私をじっと見ています。笑っているようでもなくどことなく不自然な表情をうかべています。

ストレートの長い髪に白いリボン、レースのブラウスにピンクのスカート。どこかのお金持ちのお嬢ちゃんでしょうか。

私は子どもににっこり微笑み、またお菓子の棚に目をやりました。

ですがその後、女の子が私をチラチラと見ながら何か訴えるように横についてくるのです。

何だろうともう一度よく見ると、女の子の手には小さなお菓子の箱が握られていてどうやらそれをブラウスのフリルの下、スカートのウエストのあたりに隠そうとしているのです。ポケットが無かったのでしょう。

私はハッとして凍りついてしまいました。

チラチラと私を見る目は挑戦的とも取れるような大人びた目でした。ごそごそとお菓子を隠そうとはしていますが明らかにわざと私に見えるように手を動かしています。

周りには誰もいません。

私は一瞬の間に迷いました。「ダメよ」とこっそり声をかけようか、それとも見て見ぬふりをするのか。

すると少し離れたレジの方から子どもを呼ぶお母さんの声がして、女の子は「はあい。」と元気に返事をして走って行ってしまいました。

お菓子は服の間に隠されたまま。

私は反射的に後を追い母親の姿を探しました。レジでの精算をすでに終えていた母親は女の子に何か話しかけながら二人で店から出て行きました。どうやら何かの習い事に向かう途中だったようです。

ショックでした。

あの様子だときっとそれが初めてというわけでは無さそうです。母親は気付いているでしょうか。

その時の女の子の眼差しがいつまでも私の心に残っていて時々考えてしまうのです。

あの子は私に何を訴えていたんだろう。

注意できるならしてごらんなさいという挑戦だったのか、それとも私に叱られたかったのか。単にスリルを味わいたかっただけなのか?

母親に隠しているというのは事実のようだから、何かあるのでしょう。「買って欲しい。」と素直に言えない親子関係なのかもしれません。

彼女の意図はなんだろうという疑問がその後しばらく頭から離れませんでした。

叱り続ける母親

もう一つの出来事は、図書館に出かけた日のことでした。本を借りた私は自転車置き場に歩いて向かっていたのですが、女の人の大声が聞こえてきます。どうやらすごい剣幕で怒っているようです。

近づいてみるとそこには1年生くらいの男の子がじっと母親を睨みつけて立っているのです。その形相はただただ叱られているというものではなく憎しみに満ちた顔とでもいいましょうか。涙すら浮かんでいません。

母親はそんな眼差しに気づいていないのか子どもの意見や気持ちを尋ねもせず、途切れることなく怒鳴っています。

その年齢にそぐわない怒りと憎しみのあふれる目を見た時、確かな証拠はありませんが、この子はきっとこんな風に始終叱られ自分の言葉が出せずにいるのだろうと感じました。

何故そんなに怒られているのかは定かではありませんでしたが、聞いている限りそれほど悪い事をしたようでもありませんでした。

怒りに任せて母親はネチネチと同じ叱責を繰り返し、まるで周りに聞かせたいのかと思えるほどの大声なので通りがかる人たちは親子をちらちら見ながら通り過ぎます。

私は胸が痛みました。よっぽど、「そんなに怒らなくても良いではありませんか」と子どもを庇いたくなりましたが余計なお世話はやめておこうと息を詰めて少し離れてその様子を見守りました。

やがて家路に向かうのか親子は歩き始めましたが、母親の叱責は止まずに男の子はトボトボとついていくのでした。

あまりにも一方的な叱責で男の子の言葉はついに一言もありませんでした。それが余計に母親を苛立たせたのかもしれませんが、あの勢いで怒鳴られ続けたら言葉を挟む隙もありませんし心も折れてしまいます。

けれども母親も育児に疲れ果てていたのでしょう。

疲れからイライラして愛すべき息子に苛立ちをぶつけてしまったのだろうと思いながらも、私までしょんぼりとした気持ちになってしまいました。

閉ざされた心からは何も引き出せない

先に書いた二つの出来事は両方とも子どもは1年生くらいですから年齢的には7歳ほどでしょうか。

ひとつ目のケースは、小さな女の子が何を求めていたのか今でもわからないのですが影でそんな行為をしているとはきっと母親は気づいていないでしょう。

「本当の私を見て欲しい。」という淋しさからの願望の表れなのかもしれません。

ふたつめのケースは、あまりにも一方的に母親が叱りつけ子どもが本心を言えずに心を閉ざしてしまっていると感じました。

子どもに心を閉ざされてしまっては何も伝える事ができません。

確かに子どもは悪いイタズラもしますがそこには好奇心など何かの理由もあります。もしかしたら「そうだったのね!」と驚くようなユーモアのある理由があるのかもしれません。

言い訳のできる逃げ道を少しあけていれば、そこからヒントが見つけられることがあります。追い詰めて子どもが心を閉ざすような叱り方は逆効果です。

7歳にもなれば確実に親とは違う人格が育っていますから、子どものことは分かっていると思わずにじっくりと向き合い理解し合う事が大切だと思います。

子どもは自分とは違う人格の持ち主

母親は子どもがお腹にいる時から一緒ですしついつい「自分の分身」のように子どもを見てしまってはいないでしょうか。私がそうでした。それに気づいたのは次男が思春期に入り、いろいろな悩みを抱えた時でした。

それは積み重ねられた宿題が一気に出されたような悩みの日々でしたが、それまで私自身の考えや価値観を子どもに押し付けてきた結果ではなかったかと思うのです。

小さな子どもでもその子なりの考え方や価値観は未熟とはいえ心の中に育っています。じっくりと話を聞き心を通わせることで今まで気づかなかった意外な一面を発見できるかもしれません。

子どもは親の思う通りにはなりませんが、そんな時こそ私たち親が成長できるときです。

一人の人間がオムツの頃から大人になるまでを側で見る事ができるなんて人生の中で数度しかありません。

そんな貴重な体験が後悔でいっぱいのものならないように。

自分への反省と子ども達への感謝を込めて書かせていただきました。

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