ためこみ症

本当の私と乖離した私|ためこみ症の夫に悩む日々

自転車の車輪 ためこみ症
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本当の私と乖離した私

本当の私はどんな人なのだろう。

思春期の頃に似たような悩みを持ったような気がしますが、それとは違ってもっと現実的なものです。

例えば初めて会った人のことをこの人はどんな方だろう?と考えるように。

夏が来れば54歳になる私が自分のことがわからないというのは…コレ大丈夫ですかね。笑

他の方も同じ様に感じるものなのでしょうか?

ブログを書いていなかったら日々の暮らしに流されて深く考えることもなかったのかもしれません。

このあたりでじっくり自分に向き合って考えてみたいと思います。

ありのままの自分は

ためこんだモノで溢れるリビング

モノであふれる自宅ではありのままの私ではいられなかった

人は誰でも多かれ少なかれ悩みを抱えながら生きていると思います。

その悩みを解決するために自分の考えを改めたり、誰かに歩み寄ろうとしたり、何らかの方法をとることでしょう。

私には重度のためこみ症の夫がいて、生活全般において深い悩みを抱え続けてきました。

思いつく限りの策を練り、夫に歩み寄ろうとしましたし話し合いを試みましたがそれらは全く通じませんでした。

ためこみ症である上に彼は人の感情が理解できないのだと分かったのは最近のことです。

相手の気持ちに関心を持つこともなく常に自分の立場でしか物事を見ることができません。

ためこみ症をはじめ夫についての悩みは人に理解してもらうことが難しいとずっと感じてきましたが、むしろ「相談することが難しい」と言った方が的を得ているのかもしれません。

私は広く浅く友人を持っていましたが、この悩みを相談できる友人はほとんどいませんでした。

プライドが邪魔をしている訳ではありません。

リビングテーブルもモノが積み上げられている

この悩みを打ち明けたために疎遠になってしまった友もいる

悩みを打ち明けた途端に相手が引いてしまい何となくぎこちない間柄になったと感じた事もあり、言わなければよかったと後悔したことが何度かありました。

この様な経緯を経て理解を超えてしまう様な相談をされても困る人がいるのだし、相手が許容できるかどうかが分からない話はやめておこうと思いました。

そして長年私は慎重にこの悩みを取り扱ってきました。

多くの友人の中から、お互いにどんな悩みでも受け止め合い、一緒に考え、泣いたり笑ったりできる友人を3人見つける事ができました。

他の友人たちは一緒に楽しく過ごしたりする大切な存在ですが家庭の悩みなどの話は私からはしません。

家族にはあまり興味がなく自分の楽しみを優先させている人という感じに受け取られているようですが私はそれで構いません。

私はそのような友人たちの前ではちょっぴり軽薄な役を演じてしまいます。

こんな言い方をすると語弊があるのかもしれませんが、私が悩みを含めて真の姿を見せている相手はほんの数人しかいないという事です。

そしてもちろんこのブログを書いている時間は嘘偽りなくこの悩みに向き合っていますから、読んでくださっている皆様には姿は見えないまでも、ありのままの私の心の中を見ていただいている事になります。

乖離していく私

長い時間をかけて私は深い悩みを覆い隠すため、強い私、明るい私、または冷たい私などいくつもの顔を作り上げてきました。

それは解決不可能な悩みを抱え、それを手放すことも出来ない私が無意識にあみだした生きていくための術でした。

悩みを解決するべく夫と打ち解けなくてはならないと私は試行錯誤しながら必死に明るく接していました。

努力すればいつか心が通じるはずだと信じてきた20年余りでしたがそれは私の勝手な幻想でした。

夫の退職後これ以上頑張っても自分の心が傷つくだけだと悟った私はすっかり彼に対して心を閉ざしてしまいました。話しかけることさえ嫌になってしまったのです。

長年の悩みで心が擦り切れありのままの私はボロボロになってしまいました。

そして代わりに冷たい金属でできた様な心を持った私が現れました。

私が今一番に辛さを感じている場所は自宅、特に夫が過ごしている2階のリビングやキッチンに立っている時です。やるべき家事のほとんどが夫のいる空間にあります。

夫はどこに出かけることもありませんし、モノの山の合間にいつも座っているのです。

明るく装っていた以前の私も、今こうして夫と一言も話すことなく暗い顔で心にシャッターを下ろし家事をしている私も本当の私ではありません。

夫の姿がそこにあるだけで、ありのままの私とは遥かに乖離してしまった私が現れます。

次男がまだ自宅にいた頃に「お母さんの居場所が必要だ」と一緒に片付けてくれた1階の納戸で過ごす時間だけが私が私に戻れる貴重な場所です。

そういうわけで、ほとんどの家事を最低限にこなし、私は仕事に出るか、運動のために外に出るか、納戸に逃げ込んでいます。

あららなんだか…こうして書いてみると悲惨ですね⤵︎笑

真逆の人格

現在の仕事は私が今まで様々な事をしてきた中で一番私に合っていると思えるものです。

私が一番生き生きしているのは仕事をしている時かもしれません。

気力も体力も根気も必要な仕事ですが、一緒に働く仲間とともに乗り切っていく事に満足できています。

ただ…プライベートな面を私は一切見せていません。家族の話題はもちろん夫の話などは避けまくっています。笑

そのことで私と仲間達の間に適度な距離を保てている様な気がします。

仲良くなってくるとどうしても家族の話などになってくるのが普通なのでしょうけれど。

もし私が悩みを打ち明けても今の職場のメンバーは親身に耳を傾けてくれる方ばかりだと思います。

ですが私はそうすることで職場と家を完全に切り離して過ごせなくなるのではと恐れているのです。

今は仕事に出ると一切家の悩みは忘れ仕事を終え職場を出るまでは楽しい明るい自分でいられます。慌ただしい仕事ですが考え事をする時間も無いので救われているのは確かです。

周りが我が家の状況を知ることで私自身の心の持ち方が揺らいでしまうのではないかと怖いのです。

自宅の玄関に入った瞬間、私は感情のない冷たいロボットに変身します。

職場の元気な私と真逆の家での私はとうてい他の人には想像できないでしょうし私も知られたく無いのです。

仲間からすると「謎だらけの人」に違いありません。

時々飲み会があっても私は行く事ができません。

夫が毎日決まった時間に夕食を待っていることもありますが、そういう場に出るとどうしてもプライベートな話も出てきます。

「私は闇が深過ぎて話す事ができないの」といつも笑って誤魔化してはいますが飲み会でそんな話になることに私は恐怖を感じるほどなのです。

恥ずかしくて話せない…というのとは少し違います。

職場での私は自宅と全く違う人格なので、プライベートな話をすることで人格の使い分けが難しくなるのが怖いということでしょう。

ああ、私って何重人格なのかしら…。笑

辛さも感じますが自分のメンタルを維持するためには仕方がありません。

人の本質って変わらないんだね

長年ありのままでいられなかった私は、かつて自分がどんな人間だったのか忘れてしまいました。

とてつもなく明るく天真爛漫だった様な気もしますし、陰鬱な悩みを引きずっている事もありました。

よく犯罪を犯してしまった人に「昔はあんな人では無かった」というコメントを出されたりされていますが、わかる気がします。

何か重大な、本人の力で解決できない悩みや過酷な環境に長年身を置いていると自分と乖離した別の人格が現れ、いつのまにかその人の人生を支配することもあると思うのです。

元々の性質を押さえ込んで生きるためにあみだした人格が前に出てくるというような。

まあ私は犯罪方向には向かっていません、今のところ…。笑

なかなかディープな推察になってしまいましたが、本来の私は多分…諦めの悪いどこまでも一生懸命やってしまう人間です。明るいか暗いかは解りません。

話は変わって先日遠方の友人と久々に会う機会があり、この記事を書くヒントを得ました。

20代の頃にワーキングホリデーで海外にいた頃に知り合い、日本に帰ってきてから5回ほどしか会えていないのですが彼女は先に紹介した私の大切な3人の友人のうちの一人です。

滅多に会えないけれどもいつも心は繋がっていてどんな悩みもお互いに共有できるありがたい存在です。

その彼女が、私の話を神妙に聞いています。

寝る場所もなく押し入れに体を入れて寝ていることや納戸で過ごしていること、休みの日は家にいるのが辛く自転車で遠くまで出掛けていること…私は包み隠さず話しました。

自転車の車輪

昔からサイクリングが好きだった私

すると「〇〇ちゃんたら昔とちっとも変わらないね。」と友人が笑い出しました。

そういえば私は10代の頃からあちこち自転車で遠出していましたし、その延長でバックパッカーみたいな旅もしていました。

出向いた海外では現地のルームメイトとトラブルになり、その友人のアパートメントに潜り込んだのですが、部屋がないので階段の下の物置スペースに住んでいました。

ああ、すっかり忘れていたわ。笑

彼女がいうには「あんなスペースでも〇〇ちゃんは快適そうだったよ。」

もう大笑いです。笑

「人の本質って変わらないんだね〜」

彼女の言葉に私は妙に納得したのです。

確かに若い頃からチャレンジャーであった私は間違いなく今もある意味、解決不可能に思える難題にチャレンジし続けているのです。

休みの度に家に居たくなくて自転車で遠出しているつもりでしたが、家の環境が良くも悪くもやっていたのかもしれません。

そして、階段下や押し入れなんかに入るのもほんとは好きなのかもしれません。笑笑

小心者ですからどこに居ても隅っこが大好きなのであります。

ということで、ありのままの私の姿は分からないままですが本質は変わっていないことが判明しました。

もしかしたら私は名女優になれたのではないだろうか。笑

こうして考えてみると誰しも私の様な極端に真逆の人格とはいかないまでも、いくつかの顔を使い分けているのだと思います。

それは相手を思いやる気持ちからだったり自身の身を守るためだったりするかもしれません。

それを全部ひっくるめてその人のパーソナリティーとなるのでしょう。

やれやれ、私のパーソナリティーは振り幅が大き過ぎて自分でも持て余しているのかもしれませんね。

夫の「ためこみ症」の悩みが解決できる日が来れば、忘れていた本来の私がすっかり姿を現すのかもしれません。

 

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