処分した私のもの
どんどん処分されたのは私のものでした。
ちょっとの空間があればモノで埋めるためこみ症の夫との長い戦いの日々の中で、僅かなスペースを得るために処分した私の物や思い出の数々。
私はそれらを手放すたびに砂を噛むような虚しさを感じてきました。
どんなエピソードがあったかを振り返りたいと思います。
思い出の物も捨てた
我が家は夫のためこんだモノでいっぱいになっています。
その中で私のものはどうなったでしょうか。
今までの夫とのやりとりの中で、私の持ち物のほとんどが処分されています。
化粧品や洋服などの身の回りのものが少しあるだけでほとんどが手元から無くなりました。
夫と私は13歳離れていて、もともと喧嘩はしなかったのですが、夫はモノを処分するとなると普段は大人しいのにとても怒ることがありました。
ある日モノの処分のことで夫と私はめずらしく言い合いになりました。
結婚前に少しの期間外国で暮らした事があった私はその頃の思い出の物をスーツケースに入れて保管していました。
モノを処分して欲しいと言う私の訴えに夫は逆上し「それならばオマエのこの荷物を先に捨てろ」と夫はスーツケースを指さして怒鳴りました。
心残りがないと言ったら嘘になりますが思い出はちゃんと心の中にもあります。私は「捨ててもいい」と答えました。
夫が玄関のドアから私の荷物を外に向かって激しく放り投げていたのを覚えています。
私が数少ない思い出のものを処分した事で夫が少しで譲歩して自分のモノを処分してくれるかなと期待しましたが結局夫は自分のモノは何も捨てられませんでした。
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再び手に入れた趣味も手放した
私は小さな頃からエレクトーンを習っていましたが、中学生になる頃には部活動などで忙しくいつの間にか楽器を弾く楽しみを忘れていました。
家を建て替えてまだリビングにスペースがあった頃私は働き出しました。
同時に無性にエレクトーンが恋しくなってしまい、少しずつ貯金を貯めて中古ですが手に入れることができました。
子どもたちのリクエストでゲーム曲を弾いたり、時間を忘れて難しい曲に挑戦したりと楽しんでいました。
しかし夫のモノは着実に増え続け、リビングを埋め続けていました。
子どもが勉強するための学習机を置くために私はエレクトーンを手放すことにしました。
台所仕事をしながら子どもの様子が見えるところに机を置きたかったので仕方のない選択でした。
複雑で悲しい私の気持ちが夫に通じることはありません。
もう飽きたのだろう、くらいにしか思わなかったでしょう。
エレクトーンを引き取りに来た業者の方は我が家のリビングを見て目を丸くしました。
こうして私は再び手に入れた趣味であるエレクトーンも手放してしまいました。
小山の中から1袋のゴミしか出せない夫
夫の機嫌の良いタイミングを見てモノを処分して欲しいと強く訴えたことも何度かありました。
ある日夫はあまり怒りもせずに、自分の部屋からたくさんのカバンと服を玄関から外に出していきました。
みるみるうちに 我が家の前に高さ1メートルほどの小山ができました。それでも夫の部屋の荷物のごく一部のモノです。
通りがかりの人が何だろう?と見ていきます。
恥ずかしいから早く片付けて欲しいと願いながら、全部捨ててくれるのだろうかと少しだけ期待しながらこっそり横目で窺っていました。
夕方暗くなり、夫は夕飯作りをしている私のところに来て「ゴミはこれだけだった」言うのです。
手には小さな袋に入れたゴミがひとつだけでした。
私はあまりにも驚いてしまい言葉もありませんでした。
小山の様に積んであった荷物は元通り夫の部屋に戻されていました。
元に戻すだけでも大変な労力だったと思うのですが。
そのとき私は悟りました。
彼にとってこの荷物は全て捨てられないモノなのだと。
本当に大切なものは目に見えない
もとから私は物に執着する方ではありませんでしたし、それほど手元に残したいというものもありません。
思い出の写真の様なお金で買えない物は大切にしたいのですが、それすらもほとんど自分のものは処分してしまいました。
「ほんの少しでもスペースが欲しい」
僅かなスペースを得るために私はいろいろなものを処分してきました。
ですがせっかく空いたスペースにすぐさま夫が不要なモノでいっぱいにしてしまうのです。
ためこみ症の夫はたとえ何であろうともそこが埋まってさえいれば良いように見えます。
子ども達への愛情や友人達に対する友情などもそうですが、本当に大切にするべきものは形もなく目に見えない、お金で買えないものだと思います。
それらは私が生きている限り心の中にあり失われる事はありません。
夫は目に見えているものやお金ばかりに価値があると考えています。
「自分が損をするか得をするか」という秤にかけてしか行動することがありません。
夫は可哀想な人だと時々思ってしまいます。
目に見えない大切なものが欠けているために形あるモノに執着するのでしょうか?
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