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ためこみ症

個としての存在の強烈さ|ためこみ症の夫

モノで埋まる床 ためこみ症
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個としての存在の強烈さ

夫に感じるのは「存在の強烈さ」です。

それは家族の中の1員としてではなく、ただ夫一人だけの存在感。他の誰をも寄せ付けない存在感なのです。

ためこみ症の夫の「個としての存在の強烈さ」は彼の持って生まれた性質からきているのでしょうか。

時の流れない空間で

今日もためこみ症の夫が薄暗い部屋に置かれた座椅子に座り、貧乏ゆすりをしながら過ごしています。その部屋はモノで埋まり、とてもリビングルームとはいえない状態です。

まるで時が止まっているようなモノであふれるリビングのようす

夫の座る座椅子の周りはモノで溢れていて時が止まっているように見える

まるで時が止まってしまったような空間。

どこかでこの雰囲気を感じたなあと思い起こすと、それは数年前に一度だけ行ったレストランのロビーでした。

その古いお店はレジ前が広いロビーになっていて、腰掛けて休めるよう椅子が並べられていました。

精算を済ませた後トイレに行った友人を待つ間、誰一人いないロビーの椅子に私は腰掛けて待っていました。

目の前には大きな水槽があり、数匹の魚が泳いでいます。酸素を取り入れるためのポンプの音だけがポコポコポコポコと薄暗い中に響いていて余計に静けさを引き立たせています。

まるでその空間が外の世界から切り離されていて、私一人が別世界にいるかのように感じました。

深海の底にいるような感覚とでも言いましょうか。

たぶん5分も経たないうちに友人は戻ってきたと思うのですが長い時間のように感じ、不思議な体験でした。

なぜその体験をふと思い出したのでしょうか。

現在夫の過ごしている空間は、テレビ、タブレット、スマホの全てから同時にいろんな音声が出ていますが、外の世界を遮断しているような印象を受けるところが似ているのでしょう。

時のが流れない暗い空間の中、夫は無表情で感情が読み取れません。

妻である私ともこの頃ほとんど会話らしい会話もなく、息子達も寄り付かない現状ですが、夫はその生活を変える気もありません。

私には到底耐えられないと思う孤独な環境ですが夫にとっては誰かに干渉されることなくモノに囲まれて過ごす事で満足を得ているのかもしれません。

ある意味超人とも言えます。

あくまで個として生きている

夫は人に対して無関心なのですが、我が子や妻である私にも同じく関心がありません。全く無いとは言えないとしてもかなり薄いものです。

その事で以前は傷ついたこともありますが今は私も息子達も慣れたものです。冷静に夫を、父親を一人の変わった人物として見ています。

ある日次男との何気ない話の中で、なぜお父さんは子どもに関心がないのかという話題になりました。

自分の子どもに関心がないというのはどういうことなんだろう。改めて考えてみると人間が子どもを守り育てて行くことは人間の本能に組み込まれてると思うのですが違うでしょうか。

次男は言います。「例えばウミガメはどうかな。砂浜に母亀が産卵し海へ戻って行くじゃないか。その後振り返って我が子を心配することはないだろうし。」と。

そういえばそうですね。母亀が運良く成長した数匹の我が子に広い海で会える確率は相当に低いですし、たとえ出会っても我が子かどうかわからないでしょうし。(わかるのかしら?)

ウミガメに限らす、産んだ卵たちに未練もなく生きていける動物は他にもたくさんいます。その分たくさんの卵を産み、運を天に任せて祈るのみという事なのでしょうか。

という事は夫の本能から「子どもを育てる」という部分が欠けてしまっているのかなとも思いますが、そもそも自分以外の人にあまり関心がないのです。

「子どもはほっといてもご飯だけ食べさせれば大きくなる。」と子育てで悩む私に夫が言った事がありましたし、自分から子どもに伝えたい事も特にないのかもしれません。

夫の名誉挽回のために補足するとすれば、食費や高校までの資金は出してくれたという事でしょうか。そのことに関しては私も子どもも感謝の気持ちを持たなくてはいけませんね。

それでもやっぱり夫は自分だけのことを一番に考えあくまで個として生きていると感じることが多いのです。

分け合うことのできない喜びや悲しみ

私を含め多くの人は自分以外の家族や人と繋がりを持ち、その中で悩んだり、喜びあったりするものではないでしょうか。

喜びは一人のものにするより隣にいる誰かと分かち合う方が幸せを感じられますし、悲しみや悩みも誰かに聞いてもらうだけで軽くなります。

けれども夫はそのどちらも求めていませんし、あくまで「個」として生きています。たぶんそのような人との繋がり方は夫には理解できないのだと思います。

約26年にも及ぶ結婚生活の中で夫婦一緒に喜んだり悲しんだりした出来事があったかしらと思えるほどです。

夫にも喜びや悩みや苦しみはあったはずですが、それを誰とも分け合うことができないのでした。

夫が仕事でしんどそうだなと思った時に「毎日お仕事大変ね。」と優しく声をかけてみても「仕方ないじゃないか!働かないと食べていけないのだから!」と無表情で言われた事もありました。

夫の愚痴を聞いてあげたら気持ちが楽になるのではないかと私は考えたのですが、彼にとっては余計なお世話なのかも知れません。

そして夫は幾度か突然に仕事を辞めてきて「オレの人生なのだし次の仕事を決めればいいだけの話だ。」とケロリとしています。

私や家族がショックを受けることは考えていません。

裏を返せば夫が私や子どもの事でショックを受けたりする事もないのでしょう。

妻である私にも全く関心がなく、夫婦で助け合い絆を深めたり、喜びを共有して感動を分かち合うという事が全くできずにここまで来てしまいました。

喜びや悲しみを分かち合えることのない夫が座る座椅子

人と喜びや悲しみを分かち合うことなく夫はモノに埋もれて満足しているのか

私は子どもたちや親、支えてくれる友人たちとの交流によって支えられています。けれど夫にとっては家族や人との繋がりはただただ面倒であるのかもしれません。

モノに囲まれて世界から切り取られたような狭い場所でひっそり暮らす事が夫にとって最良の生き方なのでしょうか。それはいつも私の心に影を落とす疑問です。

そしてそこには尋常ではない夫の「個」としての強烈さを感じざるを得ません。

私の恐れること

長年かけて夫の変化を待ちましたが何も変わりませんでした。それどころか加齢に伴い余計に頑固な性格になっていくようです。

自分を産み育てた親や、妻である私、自分の子どもにも愛情は薄くあくまで夫は自分ひとりの「個」として生きています。

そのような生き方と「ためこみ症」に関係があるのかどうかは分かりませんが、誰にどう思われようがオレには関係ないと言い切れる「個」の主張が異常に強いのです。

そしてそんな夫との生活の中でその状況に慣れてしまい、仕方がない事だとはいえ色々なことを諦め受け入れてきた私。

私自身は本来の私を大切にしてきたつもりですが、気づかないうちに変化してきた部分もあると思います。

夫のためこみ症の結果である我が家の状態と、夫婦の温かみに欠ける関係は私の心にいつも暗い影を落としています。

そしてその事で自分が崩れてしまわないように心をガードし明るく振る舞ってもいます。

恥ずかしいから隠すとかそういう事ではありません。

私はきっと自分の本心を誤魔化しながら明るく生きてきたのかも知れません。

そんな日々が長く続き、「いつのまにか私は無意識に他人を遠ざけるようになっていないだろうか。夫と同じくこの先孤独になるのではないだろうか。」と心のどこかで恐れてもいます。



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