人は誰しも多かれ少なかれ何かに執着して生きているものでしょうか?
自分はあまり執着心の無い方だと私は思っていたのですが、最近そのことについて考える機会がありました。
きっかけになったのはつい先日、過去に趣味で描いた絵を全て…500枚程処分したことでした。
7年ほど前、スポーツによる足のケガで安静にしなくてはならない時期に暇を持て余して描いたのをきっかけに、5年ほど続いた趣味のものでした。
はじめは1人で楽しんで描いていたのですが、子ども達に某SNSを勧められ投稿を始めたのです。
フォロワーが増えたり「いいね」をもらえることが毎日の楽しみになり、時間があれば絵を描く日が続きました。
朝目覚めるとまずはフォロワー数やいいねの数をチェックしていたのですから一種の執着ですね。
そんな日が5年近く続いた頃、絵を描くこと自体よりも数字に捉われている自分に疲れてしまい突然パタっと描くことをやめました。
そしてそのまま我が家の片隅に描いた全ての絵がひっそりと保管されていたのです。
1枚の絵を描くにも何日もかかっていること、フォローが増えたりいいねをもらえたりとある種の自己肯定感を上げてくれたツールとして何となく捨てられずにいました。
いつか私がいなくなった後にそんなものをたくさん残されても困るだろうなと思い、数日考えた末に1枚だけ気に入った絵を額に入れその他は全て処分してしまいました。
絵を処分すると何だかとてもスッキリした気持ちになりました。
そんな出来事があり、私自身が一体何に執着しているのかを改めて考えてみました。
お金や物、地位や名誉など…それらにはほとんど執着のない私ですが、目に見えない時間や思い出の類、特に子どもたちにまつわる物や思い出には執着…手放すことが辛いという気持ちが強いことに気づきました。
この家で育てた子ども達との思い出が家に染み付いていて、遊びの最中についた壁のキズひとつにしても愛おしさを感じます。
自分のものは捨てることに苦痛はないのですが子ども達が成人した今も、彼らが幼稚園に通った頃の制服や帽子はしっかり残してあるのです。他のママ達はどうなんでしょうね…。
自分がこよなく愛している人、物や場所など愛情を注いだ対象には他の人よりも執着しているような。
そういえば学生時代の卒業式などのお別れの日、私ほど周りの目を憚らず泣いていた人はいなかったように思います。
言い換えると私は別れにより自分をとりまく環境が変化する事をとても恐れているのです。
自分では何事もポジティブに受け止め冒険するタイプの人間だと思っていましたがよくよく考えてみると非常に保守的で臆病な一面もあるなと年を経て自覚するに至りました。
まあ、どんな人にも意外な一面がありいろんな要素でひととなりがなりたっているということでしょう。
人や物、場所に対しての愛情や愛着は、時が経てば私の中で消える事のない思い出となって残ります。
そして全てのことは刻々と変化し続けています。
こちらが望もうと望むまいと変化の時はやってくるのですし、恐れてばかりもいられません。
熟年離婚をしたばかりの今の私はまさにその渦中にあります。
今までのカタチに執着せずに、新しい何かを築いて行くべき時なのだと自分に言い聞かせています。
臆病な私には難しいかもしれませんが、変化を恐れず何にも執着せずに楽しみながら生きていきたいと思います。
…さて、とりあえずは目に見えている物から手放していきましょうか。なにせ新居は狭いですから…。笑
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