善い人をやめて素直になろう
心の中に沈澱する素直な気持ち
常に「善い人」でいなさい。
自分の欲求は我慢しなさい。
それは義務感や正義感の強い母に直接影響を受けたせいか、私は幼い頃からどこか偽善的な部分が大きかったように思います。
何か自分の周りで問題が起きた時、それはあきらかに周りの誰かが悪いとしても、何故か自分に責任があるように感じてしまうのです。
幼い頃から「それはあなたが悪い。」と事情を話す前から両親に言われ、相手が明らかに悪くても私が謝る側に立ってきたのでした。
心の中で反論することすらなく、子どもながらの素直さで、私は周囲に波風が立たないことを一番に生きてきたのです。
それと同時に、困難なことは自分の努力でどうにか解決するものだという、今でいう根性論も備わっていたのです。
弱くもあり、強くもあり、私は複雑で屈折した育ち方をしたと思います。
素直な自分の気持ちは、常に心の下の方に沈澱したまま、表に浮かび上がってくることはなかったですし、そのことについて自覚もありませんでした。
困難な道を選ぶ理由
そんな私はいつも楽な道より、自ら困難な道を選んでしまう性癖があることを自認していました。
なせだろうと考えてみると、それは自分自身の承認欲求の表れのように思えます。
自分が親となってまず感じたのは、私は褒めてもらったことが殆どなかったということでした。
このことは自分が親になるまで気づきさえしなかったのです。
困難に立ち向かう自分、問題に屈しない自分を「認めてほしい」という他人への欲求。
そんな自覚のない欲求に支配され、私は人生の中でいくつかの選択をしてきたのです。
ただ、それが一概に悪いことだとは思いません。
実際に私は困難を乗り越え、何かに耐えることで、承認はされないにしても、自分自身得たものも確かに多くあったと思うからです。
善い人をやめて素直になろう
善い人よりも素直な人でありたいと、年をとるにつれ私は思うようになりました。
いつも正しく善い人でなければならない、という呪縛からの解放。
善い人であることよりも、自分の気持ちに素直なことのほうが大切なのではないかと思うのです。
嫌なことは嫌、違うと思うことには違うとはっきり言える、踏み込んで言うと、「あなたが悪いのだ」とはっきりいえるような。
辛いと感じたらそこから逃げる勇気を持てるようになりたい。
心の中で誰かに悪態をつくことにすら罪悪感のある私ですが、それですっきりするならそれでいいじゃないかと思うのです。
「〇〇でなければいけない」「〇〇しなければならない」という、自分の気持ちより先に囚われてきた考え方からの開放でもあります。
解決の難しい悩みにどっぷり長期間浸かることで、私は変わりつつあるのです。
もし私がこのような環境で暮らしていなければ、一生その呪縛から逃れることはできなかったのかもしれません。
自分は本当は何を求めているのか?何がしたいのか?ということを客観的に見ながら、時に悪に傾いたとしても素直に生きていこうと考えています。

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