ためこみ症

独特な人間関係の築き方|ためこみ症の夫

ためこみ症
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独特な人間関係の築き方

重度のためこみ症の夫は変わったところが多いのですが、人間関係の築き方も独特なものです。

想像力が欠けているために相手の気持ちが汲み取れないことや、人に対する考え方なども自分を基準としているために他人との良い関係を保つことが難しいのです。

この記事では夫はなぜ希薄な人間関係しか築けないのか、また、それらのことは重度のためこみ症と無関係ではないように思える私の考えについて書いています。

モノで家中を埋めてしまうためこみ症の夫は人間関係の築き方も独特である。

ためこみ症の夫は人間関係の築き方も独特である。

去るものは追わず

「去るものは追わず」これはまだ結婚して間もない頃、話し合いの中で夫が私に言った言葉です。

「俺は今までもそうだったしこれからも去るものを追うつもりはない」と確か言ったと記憶しています。

継子である長男との関わりに悩み、赤ちゃんだった次男の育児に追われていた私は夫に協力してくれるように泣きながら訴えたところそのように言われたのでした。

夫は常に自分中心で自分の時間を家族のために割くという考えはまるでありません。

そして手伝って欲しいなどと言われると自分のしたいことにジャマをされていると感じるのだと思います。

要するに「オレの暮らし方に文句があるなら出て行け」という事なのです。

相手に歩み寄る気持ちなどはこれっぽっちもありません。

誰かに自分を合わせてまで一緒に暮らしたくはない。

今も昔も決して変わらない夫の生き方からはそのようなメッセージが常に発せられているような気がします。

そして来るものも拒まずなのかもしれません。

ただしそれはあくまで全てを自分に合わせてくれる相手の場合に限ります。

夫が相手に合わせて何かを譲歩したり気を遣ったり、ということはほとんどありません。全てを合わせてくれる人がどれだけいるでしょうか。

人間関係を作っていくには欠かせない「相手に歩み寄る」という事が夫の観念にはありません。

その場限りの相手には

深い付き合いの相手がいない夫ですがその場限りの人への対し方はとても気さくで、見ていると少し馴れ馴れしさを感じるほどです。

例えば通りがかりの面識のない相手と何かの拍子で話をする時や、お店の店員さんと話す時などがそうです。

横柄な態度をとってしまうこともあり私としては内心ハラハラすることもあります。

深く付き合う必要がない相手には自分を合わせる必要がないから気楽なのでしょう。たとえ関係が悪化してもその場限りだという感覚で夫には気にならない様子です。

夫と数度しか会ったことのない私の友人などは声を揃えて「気さくで優しそうなご主人ね」と言います。その場限りの相手にはそう思われているのかも知れません。

実際には誰にも歩み寄る事ができず、その為に親しい人間関係を築くことができないのです。

母親からの遺伝

夫の母親もまた夫と同じくためこみ症の傾向があり人間関係も希薄な様子でした。

息子である夫と義母が向かい合って顔を見ながら話をしているシーンを私は見た事がありません。

実際義母は自分の親子関係を「水くさい親子」と私に話していましたが、特にその点で悩んだりする様子もなく他人のような関係の親子だと私の目には映りました。

もしかしたら親子の間で昔に抱えたわだかまりがあったのかもしれません。

そして義母も夫と同じで、散歩中に出会う人など知り合いでもないのに気さくに話しかけるような人でした。

亡くなる少し前に老人ホームでお世話になりましたが、そこではどうも周りの方と馴染む事ができないでいるのです。

気取っているようにも見えましたが、それよりも他人への拒絶に近いように私には感じられました。

義母は一緒に過ごす仲間となると気さくに喋る事ができなかったようです。

義父は早くに他界されていてお会いしたことはないのですが、夫は母親から多くの性質を受け継いでいることは間違いありません。

残されたわずかな人間関係

唯一たった一人だけ1年に一度くらい電話で様子を聞いてくださる昔の職場の先輩がいます。

夫は受話器の向こうの先輩に近況を楽しそうに話していますが、自分からその方に連絡をすることはほぼありません。近すぎずやや遠い間柄という距離をずっと保っています。

人間関係の距離が縮まってくるとそれなりに相手に合わせなければいけない時もありますからそれを回避しているのでしょう。

たくさんの人と出逢いながらも夫は孤独であり、またその孤独に自覚がありません。

そしておそらく夫にとっては最長期間近くにいるのが妻である私です。かれこれ25年一緒に暮らしましたが心の通う夫婦関係は築く事ができませんでした。

歩み寄ろうと努力した私ですが、夫が退職してきた1年半ほど前からはもうその気力もなくなり夫に対して気を遣いすぎたり笑顔を繕う事をやめてしまいました。

一緒には暮らしていますが夫にとって話しかけることをしなくなった私は、既に「去るもの」としての存在なのだろうと思います。

私の心の変化に気付いているのかいないのかは分かりませんが、夫の生き方や態度に変化はありません。

残されたわずかな人間関係の中ですら深い絆が育まれないのです。

そこに本人の苦痛がないことが不思議ですがそもそも苦痛を感じるようであれば相手に合わせて自分を進化させることができたのでしょう。

夫の人間関係の築き方はこのように独特で孤独を選ばざるを得ないのです。

私にはとうてい出来ない生き方です。

人と距離が近くなればその分気を遣ったり傷ついたりなどすることもありますが、温かいやりとりや人の優しさ、つながりを大切にする事で幸せを感じられるのではないでしょうか。

全否定するつもりはありませんが我が子との間でさえ距離のある夫の人生はなんて寂しいのだろうと哀れに感じます。

そんな思いも夫にしたら余計なお世話だという事でしょう。

そしてその自覚のない孤独感のためにモノに執着しているのかと思う事もあります。

わずらわしい人付き合いよりはモノに埋もれて満足を得他方が夫にとっては幸せなのかも知れません。

モノは彼に何かを求めたりはしませんし捨てない限りは彼の元を去っていくこともありませんから。



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