日々思うこと

再び心は変わるだろうか|姑の最期を経て

コンクリートの間に咲くタンポポ 日々思うこと
広告

再び私の心は変わるだろうか

長年私を苦しめてきた姑の言動は私にとって大きなプレッシャーであり逃れる事はできませんでした。

「昔に私はもっと酷い目にあったのだから。」とこぼした事があり、義母はどうやら自分が姑にされた事を忠実に嫁である私に返していたようです。

ですが数年前に義母が亡くなる少し前、私は自分でも予想もしなかった意外な決心をしました。

それは何かが突然心に降りてきたような不思議な感覚でした。

この記事では姑から虐めながらも意外な結末を得た私の不思議な心境の変化について書いています。

義母の毎日の訪問

私が結婚したのはもう25年以上も前のことで、夫は子連れの再婚でした。

近所に住んでいた義母に相談もなく夫が私と結婚することを良く思わなかったのでしょう。

夫と私は歳が離れていたこともあり結婚当時12歳だった継子である長男の新しいお母さんにしては「若すぎる」と義母は不満に感じていたようです。

義母なりに心配だったのでしょうが、チャイムもノックも無しに突然家に入ってきます。義母の家は歩いてもすぐのところで我が家の鍵も持っていましたから自由に出入りできます。

台所でふと振り返ると義母が立っていることもしばしばで、だいだい毎日朝と夕方やって来るのでした。

そして1時間も2時間も近所の噂話や親戚の自慢話が続きます。誰かを詮索するのも大好きで、私は苦痛に耐え正座して義母の気が済むのをただただ待っていました。

また、平気で我が家のポストに届いた葉書を一番先に読み、差出人は誰なのかといちいち細かく聞いてきたり、引き出しを勝手に開けてノートなど読んでしまいます。

無神経な義母に若い私は何も言えませんでした。

私が留守にしていても、その間家に入りあちこち見ていて後から電話がかかってきていろいろ言われてしまいます。

義母の訪問に悩んで夫に相談しても「仕方がない。放っておくしかない。」と無関心でした。私を庇う事はありませんでしたし母親に意見する気は全くないのでした。

義母の毎日の訪問は私にとって大きな苦痛でした。

嫁抜きのおみやげ

間もなく私は2人の男の子を産み3人の息子たちの母になったわけですが、義母の訪問は続きました。

子育てと思春期の継子の世話に追われている私の忙しさなどお構いなしです。

何か買ってきてくれることも多かったのですが、それは手渡す相手を明確にしたものでした。

「これは〇〇に。これは▲▲に。」という風に、手提げ袋からまず夫のものが出てきて次に長男、次男、三男のものが出てきます。

私の名前は呼ばれません。私に何か買ってくる事はまずありませんでした。嫁の分は抜きのお土産です。

中でも嫌だったのは年末の夕方に義母がやってきて長々話しながら出してくる大きな海老天で「年越しそばに入れなさい」とくれるのですが、きっちり私の分はありません。

今思い出すとコントのネタのようで笑えるのですが、その頃の私はその度に傷つき悲しくなり心が折れそうになったのでした。

継子の躾や教育についても自分は何もしてこなかった割には私のすることが気に入らずネチネチと説教されます。

もちろん私は義母のことが大嫌いでした。

思いもよらない心の変化

3人の息子たちを心身ともに健康に育てたいと私は毎日必死でしたし、いろいろなトラブルを乗り越えながら徐々に私のメンタルは強くなりました。

義母の訪問は続いていましたが昔ほどの体力はなく電話で話す日が多くなっていましたし、私も自分の心が傷つくことのないよう割り切って付き合っていました。

そして義母は亡くなる1年前に記憶力の低下から身の回りが不安になってきたので我が家のすぐ近くの施設でお世話になる事になりました。

洗濯物を施設まで取りに行ったり届けたりの雑用は私がしなくてはなりません。

その頃仕事や子育てで忙しい毎日を送っていましたから、その上に施設にいる義母の元に通うのは大変だなと初めは内心うんざりしました。

ですがすぐに私の心に思いもよらなかった変化が起こりました。

それは「義母のことは嫌いだけどこれ以上できないくらいに精一杯義母に優しくしてあげよう。」という自分でも驚く決心でした。

一旦そう決めた私は洗濯物などの用事があってもなくても、仕事帰りに義母の顔を見るために毎日部屋を訪ねました。

私の顔を見ると義母の表情がパッと明るくなります。やはり住み慣れた自宅以外のところで暮らすのは心細かったのでしょう。

友人からは「あんなに意地悪をされたのだから仕返しに冷たくしてもいいのに。」と呆れられましたが、仮に意地悪を意地悪で返していたら私は一生心残りしたと思うのです。

義母のためではなく自分のために私はそうしたのです。

涙は一粒も出なかった

施設からの通院で私が病院まで同行した時のこと。

徐々に記憶や思考に衰えが出てきた義母が病院を百貨店だと思い込み、診察後に売店で買ったおはぎを食べながら「やっぱり百貨店のおはぎは美味しいねえ。」と言います。

私も「本当ね、美味しいね。」と言葉を合わせながら義母が可愛らしくさえ思えました。

亡くなる2週間前に義母は体調不良のため施設から病院に移され入院しました。

それまでのように仕事が終わってから見舞いに行ったある日。

酸素ボンベをつけている義母が私の声かけに反応して何か口を動かしています。

荒い息の中「ありがとう。」と言っているのでした。

その翌朝早くに義母は天国へ旅立ちました。

私は勝ったと思いました。義母にではなく自分の過去に。苛められっぱなしで惨めだった自分が報われたような気がしたのです。

お葬式では一粒の涙も出ませんでした。ただただ私のできる事は精一杯したのだという気持ちでした。

再び私の心は変わるだろうか

何故そのような心の変化が訪れたのかは分かりませんが、そのおかげで最期には大嫌いだった義母と心の中では和解できたように思えます。

そして最近頻繁に私の心によぎるのは「夫の最期、私は義母の時のように優しくできるだろうか?」「あの時のように再び心は変わるのだろうか?」という問いかけです。

現在も夫に対して大きな悩みを抱え続ける私。これまでに夫とは何も築き上げる事はできませんでしたし夫の「ためこみ症」が深刻な問題として家族にもたらされているのです。

「大嫌い」というレベルを超えて自分の意識から夫への腹立たしい気持ちをスパッと切り離して毎日を送っているのです。そうでもしないと私自身の心がもちません。

そんな夫に対して、私の心は義母の最期の時のように再び変わるのだろうか?それとも最期までこのまま無口な冷たい関係で終わるのか。

私なりに問題を解決しようと夫にいろいろ投げかけてきましたがそれが受け入れられる事はなく現在に至っていますしこの先も彼が変わることはないでしょう。

私の心は再び変わるでしょうか。

夫に精一杯優しくしてあげようと決心する日が来るのでしょうか。

最近目に見えて痩せ衰え不健康そうな夫を横目に見るたびに自分に問いかけています。

今のところ夫に優しくする事は到底できそうもない気持ちでいますが、気まぐれな私のことです。

どうなるのかは今のところ予想できません。

大抵のことはその時にならないと解らないのですから大らかに待つとしましょうか。



コメント